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満蒙開拓終戦直後の手記 95歳元団員 軽井沢の旧宅で発見

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 元満蒙(まんもう)開拓団員の北佐久郡軽井沢町長倉、大林作三さん(95)夫婦が終戦後に約60部作ったものの、1部も残っていないと思われていた満州(現中国東北部)からの引き揚げ時の手記「終戦の記」が6日までに、大林さんが以前住んでいた同町内の家で4冊見つかった。満蒙開拓に関する昨年の企画展で、手記の写しを展示した県立歴史館(千曲市)は、団員が帰国直後にまとめた手記自体が珍しく、写しでは省かれた団員らの心情なども記されており、貴重な資料だとしている。  大林さんは旧大日向村(現南佐久郡佐久穂町)の出身。同村は分村移民の先駆けとして村民を満州に送り、終戦直前に団員は800人近くになった。大林さんは1937(昭和12)年に先遣隊として入植。開拓団の会計係を務め、終戦後の46年に村に戻った。  終戦の記は満蒙開拓の様子を記録しようと作ったという。大林さんと妻の故ツマ子さんが記憶をたどり、終戦1週間前の45年8月8日から46年10月15日までの出来事を日付順にまとめ、謄写版で印刷。B5判ほどの和紙をこよりで束ねた計12ページにまとめた。  これまで旧大日向村職員が終戦の記を書き写したノートの存在は知られていたが、印刷された物は残っていないと思われていたという。大林さんの三男博美さん(63)が3月にかつて住んでいた家を片付けた際、物置の段ボール箱からツマ子さんの手紙などと一緒に見つかった。  終戦の記には、戦後に満州で「暴民」に襲撃され、「血と汗で築いた家は蜂の巣をこわしたやうにばらばらになり」(1945年9月9日)、寒さと恐怖で寝られなかったこと、「無一物となった私共(ども)は強いもの此(こ)れ以上恐(こわ)いものはない」(同10日)と自らを奮い立たせたことなどが記されていた。逃避行でほとんどの団員が病気になり次々亡くなったが、「内地に帰った時は再拓して静岡の暖かい所へ入植だと既に計画は有(あ)った」(46年1月初旬)など、日本での生活に希望を持つ団員の思いも多く記述されていた。  県立歴史館文献史料課の青木隆幸課長(55)は「大日向村職員の写しは、役所の資料として必要な部分だけ抜き出したのではないか」と推測。「開拓団員本人が終戦直後に書いた手記はほとんど見つかっておらず、貴重だ」と話す。  県内からは全国最多の約3万3千人が満州に渡り、約半数が現地で戦死したり、病死したりした。満蒙開拓が国策で進められた経緯などから、現地の様子や当時の思いを語りたがらない人も多く、元団員が皆、高齢になっていることから、青木課長は「満蒙開拓を語り継ぐタイムリミットが近い」と指摘。「こうした史料が出てくることで関心の薄い人にも興味を持ってもらい、他の史料の発見につながることを期待したい」と話している。(長野県、信濃毎日新聞社)


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