辰野高校(上伊那郡辰野町)1年4組の生徒41人が今年、化学兵器などを研究・開発し、太平洋戦争末期に川崎市から上伊那地方などに疎開した「陸軍登戸研究所」について、地元の年配者らの証言を集める。来年の戦後70年に向け、戦争と平和を考える機会にもする狙いだ。同研究所に関する資料の多くは戦後に処分され、元研究所員ら直接の関係者はほぼ亡くなったとみられる。新たな手掛かりを得るのが難しくなる中、専門家は証言の一つ一つが「大変貴重」と指摘している。 4組学級担任の木下健蔵教諭(59)は、前任の赤穂高校(駒ケ根市)にあった自主的なゼミ「平和ゼミナール」の生徒と1989年から県内の同研究所について調査。細菌兵器の使用後に飲み水を確保するために開発され、「軍事秘密」の刻印があるろ過装置などが生徒の調査を通じて駒ケ根市で見つかるなど、闇に包まれていた実態解明に貢献した。 辰野高の生徒は、上伊那に疎開した研究所の様子を見聞きした地元の年配者などから聞き取りをする予定。かつて赤穂高の生徒が調べた事実も含め、夏の文化祭で発表する計画だ。 聞き取りには駒ケ根市中沢在住の上村睦生(ちかお)さん(77)、竹村寿彦さん(77)らが協力する。ともに終戦時、登戸研究所の疎開先の一つ、中沢国民学校(現中沢小学校)の3年だった。父親が同研究所の庶務係だったという上村さんは「うろ覚えのことが多い」としながらも、「家で話題になることは少なかったが、爆弾や化学兵器を作っていることは推測できた」と振り返る。「戦争があのまま続いていたら、駒ケ根も爆撃されていたのではないかと考えると怖くなる」 竹村さんは、終戦で研究所の解散式が行われた時に、地面に埋められていた火薬が大爆発したことをはっきり覚えている。解散後には当時貴重だった缶詰が住民に配られたという。 木下教諭は「当時を知る人の証言から、研究所の様子や雰囲気を肌で感じてほしい。研究所を見た人も高齢になる中、証言を次世代に継承していきたい」とする。 登戸研究所に関する資料を展示、収蔵する明治大平和教育登戸研究所資料館(川崎市)の関係者も2013年夏、上村さんらに聞き取りをした。館長の山田朗(あきら)・明大文学部教授(史学)は「かつて高校生が研究者だけではたどり着けない史実を掘り起こしたように、登戸への関心を高めることは新たな手掛かり発見の可能性を秘めている」としている。(長野県、信濃毎日新聞社)
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