太平洋戦争で大町市八坂出身の父親を亡くしたフィリピン残留日本人の縣ヤスノリさん(71)が今夏にも、日本国籍を取得できる見通しになった。ヤスノリさんは1997年に残留日本人10人とともに集団で初来日し、「日本人として認めてほしい」と訴え、昨年秋、長野地方法務局(長野市)が日本国籍を認める決定をした。外務省によると、在フィリピンの残留日本人の国籍回復をめぐる統計はなく、日本の支援団体などによると、戦後68年余が過ぎても、フィリピン残留日本人の国籍回復は進んでいない。 「とても長かったが、認められてとてもうれしい」。岐阜県可児市の娘たちの家で3年ほど前から暮らしているヤスノリさんは昨年暮れ、こう話した。農業で12人の子どもを育てた手は厚く、指は太く、深いしわが刻まれていた。 ヤスノリさんの父政吉さんは1891(明治24)年生まれ。ヤスノリさんのいとこの縣宗市さん(91)=大町市大町=によると、ヤスノリさんの父政吉さんは大正時代の初めにフィリピンへ。マニラ麻の生産工場を経営し、手紙には「200人ほど使っている」などと書いてあったという。 戦前、米国領フィリピンには、マニラ麻の栽培といった事業のために多くの日本人が渡り、最盛期には約3万人に上った。現地の女性と結婚し、家庭を築く人も多かった。政吉さんもフィリピン人女性と結婚し、ヤスノリさんら2男1女をもうけた。戦争中、政吉さんは日本軍と行動を共にし、山中で米軍の爆撃を受けて死亡。ヤスノリさんは幼すぎて父親の思い出は何もない。 戦後、ヤスノリさんは家族と離れ離れになり、母親の親戚の家に引き取られた。当時のフィリピンでは、「日本軍の子ども」と迫害されたといい、「農作業の手伝いばかりやらされ、小学校もろくに行かしてもらえなかったことがつらかった」。 1990年代に入り、フィリピンで反日感情が薄れるなどして国籍回復を求めて動き始めた。97年に来日して訴えたが、その後、日本政府や支援者からの連絡は途絶えた。 10年ほど前からヤスノリさんの子どもたちは日本で働くようになった。可児市や隣の岐阜県美濃加茂市には、6人の子どもと7人の孫が暮らす。その子どもたちが、ヤスノリさんの国籍回復への支援を地元の翻訳通訳業の林信夫さん(58)に依頼。ヤスノリさんを日本に呼び寄せた。 昨年9月、ヤスノリさんは、子どもや孫、林さんらと大町市を訪れ、宗市さんと再会。戸籍記載の許可を求める手続きをしていた長野地方法務局大町支局で面接し、2週間ほどで許可が出た。 林さんによると、宗市さんが政吉さんとの手紙や戦後の戸籍抹消手続きなどについて証言したことが許可が出た要因になった。今後、ヤスノリさんの親族によるフィリピンでの書類手続きを経て、今夏にも日本国籍が回復する。 フィリピン在留日本人の国籍回復を支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(東京)は、「日中両政府が名簿を作成している中国残留日本人と異なり、政府間の調査がないこともあって、フィリピン残留日本人の国籍回復は遅れている」と指摘する。 宗市さんは「多くの日本人が関心を持って機運を高めれば、ほかの人の国籍回復も進むのではないか」と話した。(長野県、信濃毎日新聞社)
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