上水内郡信濃町出身で江戸時代の俳人小林一茶(1763~1827年)が妻きくに宛てた手紙と、新出句9句を含む一茶に関する新資料44点が張られた折り本「柏原雅集(がしゅう)」が18日までに、新たに見つかった。一茶がきくに宛てた手紙はこれまでに2通しか確認されておらず、一茶研究の第一人者の矢羽勝幸・二松学舎大客員教授(上田市)は「とても珍しい資料」と評価。この手紙を含め計45点の新資料が確認されたことについて「一度にこれだけの資料が見つかることはまずない」としている。 いずれの資料も、一茶の資料を集めた長野市出身で京都の俳人小林恒堂(こうどう)(1882~1936年)の京都市内の子孫宅から見つかった。昨年11月に自宅にあるのを見つけて信濃町の一茶記念館に持ち込み、同館と矢羽さんが確認した。 手紙は、善光寺にいた一茶が信濃町柏原にいるきくに出した。縦14・5センチ、横約32センチ。同館によると、体調の悪いきくを心配し、北信地方の門人宅を訪ねて回っている自分の居場所を知らせている。一茶の日記などから、1817(文化14)年か、20(文政3)年に出したとみられる。 一茶ときくは14年に結婚。生まれた3男1女は幼くして亡くなり、きくも23年に亡くなった。矢羽さんは「手紙からは夫婦仲が良く、きくに手紙を読める教養があったことが分かる」と説明。一茶ときくの関係性を補強する資料になるという。 柏原雅集は、明治時代に一茶の顕彰、資料の収集に尽力した信濃町の中村利貞(1849~1907年)が、一茶の句などが記された扇面(せんめん)や短冊、色紙などを、1枚縦55センチ、横36・5センチの厚紙18ページにわたって張り付けて作った。一茶記念館によると、55点が張られているが、偽筆などと判断した11点を除き、44点が新資料になるという。 44点は、一茶が俳句修業の旅をしていた33歳のころから65歳ころまでの作品。これまで存在が知られていた一茶がきくに宛てた手紙「ひぜん状」の実物や、新出句などが書かれた用紙、中野市の知人と詠んだ連句などがある。一茶の字の変遷も分かる。 新出句には、ところてんが入った杉桶(すぎおけ)に月が映っている様子を詠んだ「杉桶や有明月と心太(ところてん)」や、畑を踏むなと怒ったようにキジが鳴く様子を詠んだ「畠踏(はたふむ)な畠踏なとや雉(きじ)の声」などがある。 一茶記念館の中村敦子学芸員は「一茶が生誕250年を過ぎてもなお愛されている背景には、一茶の資料を集め、世に出そうとした人々の努力がある」と強調している。 新資料は21日から同館で開く企画展で展示する。(長野県、信濃毎日新聞社)
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