太平洋戦争中、松本市にあった陸軍松本飛行場に駐留していた特攻隊の整備兵14人の集合写真が、塩尻市の青木孝子さん(84)宅に残されていた。これまで特攻隊についてさまざまな研究がされてきたが、整備兵のことはあまり知られていない。写真から、若い特攻隊員を支えた整備兵も20代の若者であったことが分かる。特攻隊関係の史料に詳しい知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の管理組合は「戦時下の状況を知る貴重な史料」とする。写真は2日、松本市内で開いた歴史講座で公開された。 青木さんによると、写真は松本市を飛び立つ当日の1945(昭和20)年3月18日午前6時半ごろ、同市浅間温泉の旅館前で撮影された。帽子に日の丸の鉢巻きをした14人が整然と並んでいる。裏には青木さんが全員の名前を書き込んである。同飛行場について調べている松本市空港図書館の川村修館長(58)が、青木さんから聞き取りをし、書籍から整備兵の一人を特定。写真が特攻隊の陸軍誠(まこと)第32飛行隊「武剋(ぶこく)隊」の機体整備を担当した整備兵と結論付けた。 青木さんによると、整備兵のほとんどが20代前半で、浅間温泉の旅館「東山温泉」に1カ月ほど滞在していた。青木さんは当時、親類が営む同旅館を手伝っており、整備兵とも交流があった。手作りのぼた餅を振る舞うと「おふくろの味だ」と喜ばれたという。 出発前に3人から住所を書き込んだ割り箸の袋などを渡され、写真の送付を頼まれた。午前10時半ごろ、飛び立ったうち3機の飛行機が旅館上空を旋回し飛び去った。写真は送ったが返事は来なかった。 川村館長によると、整備兵は特攻機に同乗し、鹿児島などを経由して沖縄へ向かった。沖縄で特攻隊の出撃を見送ったが、地上戦で5人が戦死し、数人が復員したことが分かっている。 同組合は「生き残った整備兵だった人たちが多く来館してくれるが、当時の写真は会館にも数枚しかなく、特攻隊研究の上で貴重な史料」としている。 川村館長は歴史講座で写真を紹介し、「終戦直後、軍に関わるあらゆる史料が処分された。地元に残っていた武剋隊の出撃を裏付ける唯一の写真で、重要な発見」と述べた。 青木さんは「無事に帰った人がいたと分かっただけでもうれしい」と話している。(長野県、信濃毎日新聞社)
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