須坂市中心部に残る明治初期建築の旧家「小田切(おたぎり)家」で10日までに、越後(今の新潟県)を拠点としていた戦国武将上杉景勝が家臣に宛てた書状が見つかった。幕末から明治にかけて書かれた書物にこの書状についての記述があるが、原本がどこにあるかは分かっていなかった。書状は景勝が現在の大町市周辺で戦功を挙げた家臣をたたえた内容。市の依頼で内容を調べた信州大副学長の笹本正治教授(日本中世・近世史)は、景勝は当時、今の松本地方で豊臣秀吉らと勢力争いをしていたとし、「当時の信州の政治情勢を研究する上で大変貴重な史料」と話している。 小田切家は、幕末から明治中期にかけて活躍した製糸家小田切辰之助(1839~1904年)が建てた。須坂市が昨年6月、須坂の歴史を象徴する建物として辰之助の子孫から購入。屋内に残された古文書や民具も買い取って調査していた。 書状は横約36センチ、縦約26センチで、1583(天正11)年5月20日の日付が記されている。掛け軸に仕立てられ、「上杉景勝公書状」と記された木箱に入っていた。 宛先は「小田切四郎太郎」。笹本教授によると、漢文で「12日に仁科表(にしなおもて)(大町市周辺)で多くの敵を討ち取ったと聞き、気持ちがいい」「自分がいる場所もしばらくすれば思う通りになる。安心してほしい」などと記されている。書状には、他の景勝の書状と同様に四つ折りにされた跡が残り、署名の下のサイン「花押(かおう)」も景勝のもの。紙質も戦国時代のものだった。 笹本教授は「書状が書かれた前年に武田勝頼と織田信長が死に、信州は日本でも一番激しい戦乱の地だった」と説明。今の松本地方をめぐって景勝、秀吉、徳川家康などの各勢力が争っていたとし、「景勝が越後から大町周辺まで勢力を持っていたことが分かる。戦国時代の信州の雰囲気をよく伝えている」と話す。 「小田切四郎太郎」がどのような人物で、小田切家とどんな関係にあるかは不明だが、笹本教授は「景勝と直接書状をやりとりできるとなれば、相当高い身分の武士と考えられる」としている。 上田で蚕の卵の販売を手掛けていた藤本善右衛門(1815~90年)が、幕末から明治にかけてまとめた古文書などの研究書「続錦雑誌(しょくきんざっし)」にこの書状の存在を記していた。新潟県上越市公文書センターは「長野県内では景勝の書状が比較的多く見つかっているが、今回の書状は折り目がしっかり残っていて、当時の書状がどのように届けられていたかがよく分かる点でも貴重」と話している。 傷みが激しいため、須坂市は本年度中に修復して市立博物館で公開する予定だ。(長野県、信濃毎日新聞社)
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