日露戦争(1904~05年)に兵士として動員された飯田市出身の加納清作さんが、ロシアの地で1905年5月に捕虜となってから翌年2月に帰国するまでを記した日記が、同市江戸町にある清作さんのおい、加納信雄さん(83)宅で6日までに見つかった。捕虜になった心境を「精神的自殺」と記したり、日本から捕虜への援助が届かないことに憤ったりと、率直な思いがつづられている。日清・日露戦争に詳しい仏教大歴史学部の原田敬一教授(日本近代史)は「日露戦争でロシアの捕虜になった兵士の回顧録はあるが、日記はこれまで目にしたことがない」とし、重要な資料だと話している。 信雄さん、智恵子さん(78)夫妻によると、清作さんは帰国し、同市銀座通りで反物店を営んでいた。45年に63歳ぐらいで亡くなったという。日記は昨年5月ごろ、夫妻の自宅の本棚から見つかった。縦14・5センチ、横10センチ、約140ページ。3~5ミリ角の小さな文字で捕虜生活について記してある。記述のない日もあるが、出来事や心境に4ページ半を費やした日もある。ロシア服とみられる姿の清作さんらの写真も挟まれていた。 清作さんは1905年5月14日、旧満州の奉天(現中国瀋陽市)の北方で監視兵として活動中に軍馬を撃たれて捕虜となる。同19日には「予ハスデニ精神的自殺ヲ遂ゲリ」と悔しさを記している。 こうした中、5月27~28日には日本海で繰り広げられた海戦で、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えた。 清作さんは6月29日にサンクトペテルブルク南方の収容所に到着。捕虜になった自分を「恥辱ヲ晒(さら)ス」と記しながらも、食事が少量のパンと塩気のないスープであることに不満を示し、「祖国ノ当局者」には自分たちへの「同情ノ涙」はないのかと憤りを記した。 7月1日には、開戦直後に捕虜となった少佐についての記述がある。収容所での通訳担当の「日本婦人」を「妾(めかけ)」にしたとして、戦地の兵士の姿が思い浮かばないのか―との趣旨を記述している。 日本人将校への批判は他にもある。同12日には、ロシアから「六十円以上」の給与を受けた将校が自分たちには少額の分配金しか渡さないことに不満を示し、翌13日には病人やけが人にまで収容所の炊事仕事をさせようとする暴言に怒りを感じたと記載。原田教授は「収容所で兵士が将校に対しどんな感情を抱いていたかが分かり興味深い」と話す。 日露戦争の終結に伴い、日本人捕虜は12月15日、ドイツとロシアの国境付近で日本側に身柄を引き渡された。翌16日にランツベルクに到着し、「赤十字看護婦」からビールやたばこなどの配布を受ける。ベルリンでは「数万」の市民から歓迎を受けたと記し、「其ノ愛情ト優遇トハ永(なが)ク忘ルヲ能(あた)ハザルナリ」と書いている。原田教授によると、ビールなどの配布や、大勢のベルリン市民による歓迎については記述されたものを見たことがないという。 12月20日にハンブルク港を船で出発。寄港したインドでは、日本からの留学僧を介して会った寺院の長老から、日露戦争での勝利に感謝されたことが記されている。 原田教授は「捕虜となった一兵士が日々どんな思いを抱いていたのか分かる貴重な資料」と指摘。日記を読み解いた飯田市歴史研究所の安岡健一研究員は「飯田下伊那地方の日露戦争の貴重な資料として、書き起こして保存することを検討したい」としている。(長野県、信濃毎日新聞社)
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