松本市で震度5強を観測し、18人が死傷、多くの建物に被害が出た地震から30日で2年になる。同市の地下には、東日本大震災後に地震発生確率が高まったとの調査結果もある牛伏寺(ごふくじ)断層(松本市―塩尻市)が走り、直下型地震への備えがより重要になっている。商業施設が多く集まる松本駅近くの地区は、買い物客や観光客の安全をどう確保するかの議論を開始。郊外の住宅地は、2年前に浮き彫りになった課題を克服しようと模索を続けている。 百貨店やホテル、雑居ビルが立ち並ぶ松本駅近くの繁華街。28日も地図を手に散策する人や買い物袋を提げた人が行き交っていた。「大地震ではこの人たちにどう避難してもらうかが課題」。一帯の計19町会(自治会)からなる「第1地区」の連合町会長石塚栄一さん(77)は強調する。 2年前の朝、石塚さんは同地区外にある自宅で揺れに気付いた。第1地区に所有する4階建てビルに駆け付けたが、エレベーターは止まり室内は書類が散乱。近くのビルは壁が崩れていた。 もし、被害がもっと大きければ―。町会役員は住民の安全確保で精いっぱいだが、観光客や買い物客が「帰宅難民」になる恐れもあり、石塚さんは不安が高まったという。 地震から1年が過ぎた後の昨年8月、役員たちは民生児童委員らを集めて防災特別委員会を結成。企業との連携も目指し、地区内のホテル、百貨店計12社と月1回の意見交換も始めた。災害時、頑丈な建物に人々を受け入れてほしいとの思いもあった。 特別委は「地区には住民以外も大勢いる」と言うだけでは説得力を欠くと判断。ことし2月に昼と夜の地区内の人の数を調べ、平日午後2時ごろは1万375人、同午前2時ごろは4300人と判明した。住民登録している人は約1500人。守る必要があるのは住民だけではないという思いが強くなったという。 話し合いを通じ、企業側の考えも深まった。百貨店井上の川窪光弘総務課長は「われわれの役目はお客さまを避難所にお連れすれば完結と考えていた面があった」。第1地区との会合を重ね、「避難場所からより安全な場所にどう誘導するかといった課題があることに気付いた」と話す。 企業側は客の安全確保だけでなく、従業員やその家族の安否確認もする必要があり、地域とどこまで連携するか―の判断は難しい。それでも川窪さんは「(話し合いは)地域の一員であることを認識する機会になっている」と話した。 防災特別委員長の春日孝介さん(63)は、地区の取り組みを通じて地方の都市型防災モデルをつくりたいと言う。話し合いに加わるホテルニューステーションの小林磨史(まふみ)社長は「課題を一つずつ解決すれば、良い連携策がつくれる。その結果、松本が安全な街だとPRできるようになればいい」と話していた。 2011年6月30日の地震で被害が大きかった松本市芳川地区の小屋町会は、災害直後に住民同士で助け合う仕組みづくりを急ぐ。昨年8月に隣組ごとに「隣組リーダー」を決定。高齢者がリーダーを務めなくて済むよう、ことし5月には地震前に120あった隣組を110に再編した。 同町会は古くからの農村部と新興住宅地が入り交じる。宮沢孝紀(たかとし)町会長(71)は地震発生時、町会の防災組織の連絡網で被害情報を集めようとしたが、思うように役員と連絡が取れなかったと振り返る。自分で車を走らせたが十分ではなく、地域にいてすぐ動ける人を確保しておく必要性を痛感したという。 同町会はまた、防災組織に「救出機動班」をつくり、重機を持つ二つの企業に入ってもらった。「崩れた家に人が取り残された時、人力で救出するのは時間がかかる。二次災害の恐れもある」と、宮沢さんは説明した。 芳川地区では、平田町会もことし4月に防災組織に「総合機能班」を結成。定年退職して自宅近くにいることの多い12人を班員とし、住民の安否確認や被害情報の収集をしてもらう態勢をつくっている。(長野県、信濃毎日新聞社)
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