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特攻隊員の遺墨、鹿児島の知覧に 山ノ内の女性が寄贈へ

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 下高井郡山ノ内町平穏の栗原和子さんが、亡父の富岡勇吉さんが保管していた特攻隊員2人の遺墨を、特攻基地があった鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館に寄贈することになった。栗原さんによると、富岡さんは遺墨を大切に保管し、2人の遺族を捜したいと話していたが、2008年に88歳で死去。遺墨を引き継いだ栗原さんが、「特攻隊員のことを後世に伝える資料になればうれしい」と寄贈を申し出た。  富岡さんは1943(昭和18)年から終戦まで、当時、東京都立川市にあった航空機メーカー「立川飛行機」の組立工場の食堂で働く調理員だった。遺墨は、近くの飛行場で、出発直前の特攻隊員2人に辞世の言葉を和紙に書いてもらったもので、それぞれ縦30センチ前後、横20センチ前後。「空征(ゆ)く屍(しかばね) 雲染めて」(九段 梶並)、「止(とど)めを刺せ」(九段隊 染谷少尉)と毛筆で書かれている。  栗原さんが寄贈を思い立ったきっかけは、特攻隊をテーマにした特別展「戦争と平和展」を開催中の松本市立博物館であった平和会館の語り部による講演会。栗原さんは、語り部の講演を伝える7月28日付の信濃毎日新聞を見て、平和会館に電話し、遺墨を保管していることを伝えた。  平和会館側からは、遺墨を書いた隊員の1人「九段隊 染谷少尉」は、45年4月、知覧特攻基地から出撃した染谷勇さんとみられると説明を受けた。  平和会館によると、九段隊は「第29振武隊」の別名。平和会館が作成した特攻部隊別の隊員名簿に、染谷勇さんの名前がある。茨城県出身で特別操縦見習仕官第1期生の学徒で、4月8日に出撃し、沖縄周辺で戦死した。もう1人の隊員「梶並」は名簿に名前がなく、消息は分からないという。  栗原さんは「父は遺墨を隊員の家族に届けたいと願っていた。展示してもらうことで遺族の目に留まれば」と寄贈を決めた。「父からは、戦争は、日本も対戦国もお互い悪かったとよく聞かされた」と栗原さん。「遺墨から、命を懸けて飛び立った若者たちの思いを少しでも多くの人に知ってほしい」と話している。(長野県、信濃毎日新聞社)


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