太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月、沖縄への水上特攻作戦に向かった戦艦大和などが東シナ海に沈んでから、7日で69年になる。海軍兵学校を前月卒業し、大和の護衛艦に乗り組んだ松本市の伊藤森高(もりたか)さん(89)は出撃前日に上官の指示を受けて下船し、命をつないだ。作戦の悲劇を胸に刻んできた伊藤さんは初めて取材に応じ、「戦争は絶対だめだ。これからもあらゆる努力をして避けなくてはいけない」と語った。 「覚悟を決めたばかりで、動揺は大きかった」 伊藤さんは、自身を含む少尉候補生に下船が命じられた時をそう振り返る。大和を旗艦とする第2艦隊司令長官の命令だった。伊藤さんは仲間と出撃を懇願したが、乗り組んでいた護衛艦矢矧(やはぎ)の上官から「将来ある者を無為に特攻で犬死にさせることはできない」と諭された。 伊藤さんは烏川村(現安曇野市)出身。旧制松本中学校(現松本深志高)の5年だった42年11月、広島県・江田島にあった海軍兵学校に入った。入校時に兵学校で同期3人を含む松本中出身者12人と撮影した記念写真や、訓練で棒倒し競技をする生徒たちの写真などを保管している。 45年3月に卒業し、矢矧に乗艦した。ミッドウェー海戦などの大敗は聞いており、「海を死に場所と決めていた」という。4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を始めると、日本は第2艦隊を沖縄に送る特攻作戦を実行に移した。 下船命令翌日の4月6日朝、山口県・徳山に停泊していた矢矧から伊藤さんら約20人が下りた。「生死を分かつ重大な岐路だった」。同日出撃した第2艦隊は沖縄へ向かう途中で米軍の猛攻を受け、大和だけで有賀幸作艦長(上伊那郡辰野町出身)ら2500人とも、3千人とも言われる戦死者が出た。矢矧も沈んだ。伊藤さんがそうした事実を知ったのは、1週間以上後だった。 伊藤さんは水上特攻を「無謀な作戦だった」とする。「少尉候補生の下船は司令長官の独断で、感謝している」と話す。命を落とした人たちのために、今も毎年靖国神社への参拝を続けている。 伊藤さんは太平洋戦争について、「もっと早くやめればよかった。当時、降参は恥だと思ったが反省する点が多い」と言う。3年ほど前には息子や娘、孫たちに向け、戦争体験や自身のこれまでの歩みを文章にまとめて渡した。「戦争を経験した者が、その体験を後世に残すことが必要だ」。長く秘めてきた思いを明かした理由をそう説明している。(長野県、信濃毎日新聞社)
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