松本城(松本市)二の丸御殿跡が、江戸時代は南側の太鼓門の敷地より約70センチ高かったとみられることが30日までに分かった。市が進めている御殿跡西側の内堀石垣修復事業で、敷地を仕切る3段の石組みが初めて確認された。政務を取り扱う政庁として使われた御殿へ外部からの侵入を防ぎ、権威を高める効果があったとの見方がある。 明治初期に焼失した二の丸御殿の構造を知る手掛かりになるともみられる。 樹齢約100年のケヤキ2本の根により内堀石垣が押し出され、壊されたため、市松本城管理事務所が木を伐採して石の隙間に入り組んだ根を取り除いた。その際に石組みは見つかった。南北方向の石垣に対してほぼ垂直に東西方向に約5メートル伸びていた。 一つの石は高さと幅が約30センチ、奥行き約45センチで、横に六つ並び、2段目も同様に重なっていた。3段目との隙間に詰めたことを示す小さな石も見つかった。石の切り方から江戸後期の改修で新たに積み直された可能性があり、今後詳しく調査する。 御殿跡と太鼓門一帯は、明治以降の埋め立てでほぼ平ら。江戸時代の絵図には石組みの位置に塀があり、延長上に「表御門(おもてごもん)」が配置してある。 調査を担当する同事務所の堀井亮彦(あきひこ)主事は「大切な場所だけに高さを設けて入場を制限し、高く見上げる視覚的効果も出したのではないか」と推測。御殿焼失後は、明治から昭和にかけて裁判所や公園などに利用され、整地が繰り返された。同事務所の後藤芳孝・研究専門員は「時代とともに土地の利用は変わったが、江戸時代がそのまま残る遺構の発見だ」と話している。(長野県、信濃毎日新聞社)
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