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戦争中の国策「松根油」製造、松本で釜発見

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 山あいに広がる松本市中川の民家で、太平洋戦争末期に航空機などの燃料不足を補うため松の根から採った「松根油(しょうこんゆ)」製造に使われた釜が残っていることが22日までに分かった。松根油製造は国策で進められ、全国で多くの製造工場が造られたが、県立歴史館(千曲市)によると、釜が残っている例は珍しいという。地元の郷土史研究家らは「山間部でも戦争の影響を受けていたことを伝える品」としている。  地元の戦争の記録などを調べている同市赤怒田の元小学校長関口秀徳さん(75)と同市中川の会社員中原昌良(まさよし)さん(52)が、昨夏から松根油製造に関わった住民など約30人から聞き取りをする中で、同市中川の伊沢学さん(80)宅に鉄の釜があることが分かった。高さ約160センチ、直径約95センチ、厚さ8ミリほどで、伊沢さんが松根油製造の釜として譲り受けたことを父から聞いていたことや、地元でその釜を使って松根油製造した人もいることも分かった。  松根油は、松の根を細断して鉄製の釜で蒸して採る油。戦況が厳しくなり、燃料不足となる中、1944年10月23日、国は目標生産量などを示したうえで国民に松根油の製造を促す要綱を出した。  中原さんらの聞き取りによると、旧東筑摩郡四賀村(現松本市四賀地区)に合併前の中川、五常、会田、錦部の各村には、それぞれ村立の松根油製造工場があった。  中川には今も工場だった木造建物が残っており、国民学校高等科卒業後の45年4月から終戦まで働いた地元の中嶋健(たけし)さん(82)は「各地から大量の松の根っこが荷車で運ばれて来た。5人の従業員のうち自分が最年少で、根を砕くのが主な仕事だった」。給料は子どもが1日3円、大人が6円で当時としては高給だった。また、松根油づくりに携わる人は兵役を免れられたため、あえて息子を工場で働かせた親もいたとの証言や、地元の錦部小の45年の日誌には、子どもたちが松の根を割る作業に携わった記載もある。  同歴史館の塚田博之専門主事は「釜が見つかった例は聞いた事がない。実際にどんなことが行われていたのか、体験者の証言とともに残すことは価値がある」とする。関口さんは「松を使ってまで燃料捻出し、なぜ戦争を続けたのか疑問だ」、中原さんは「太平洋戦争の一つの側面として後世に伝えていきたい」と話している。(長野県、信濃毎日新聞社)


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