中箕輪尋常高等小学校(現上伊那郡箕輪町箕輪中学校)の生徒や教師ら11人が死亡した1913(大正2)年8月の中央アルプス駒ケ岳(2956メートル)遭難の2年前、11(明治44)年に同校の駒ケ岳登山に参加した子どもの手記が箕輪町で見つかった。手記によると、13年のルートより難しいとされるルートを登り、野営するなど「鍛錬」の色合いが濃い。12年も野営したとする資料があるが、13年は小屋泊まりに変更されていた。 手記を書いたのは故・原郡治さん。登山当時の学年ははっきりしない。諏訪市出身の作家新田次郎の小説「聖職の碑(いしぶみ)」で知られる遭難から100年になるのを前に、町郷土博物館が親族から提供を受けた。同館の柴秀毅学芸員は、13年の計画は前2年より改善されていたが、当日朝の天気は登山を中止するほど悪くはなかったことなど、「小さな原因が積み重なり、暴風雨が決定打になった」とみている。 13年の登山で死亡した赤羽長重校長は、10年に同校へ赴任。同校長の下で学校登山が本格的に始まったという。原さんの手記には、11年は「八丁立(はっちょうだて)」経由で駒ケ岳に登った―とあり、同じ地名のある伊那市西春近からの登山道(通称「権現づるね」)を通ったとみられる。 手記によると、学校から歩き、道に迷って雷雨に遭った。将棊頭(しょうぎがしら)山(2730メートル)付近で野営したとみられ、夜中に延々と軍歌や「信濃の国」を歌ったという。 翌12年のルートは不明だが、同校があった場所にある箕輪中部小学校の百年誌によると、将棊頭山と駒ケ岳のほぼ中間の濃ケ池(標高2600メートル)付近で野営している。百年誌には11年の登山に関する記述はない。 一方、13年は伊那市の内(うち)の萱(かや)からのルートで、現在の宝剣山荘付近にあった伊那小屋に泊まる計画だった。赤羽校長はこのルートは初めてだったとされるが、柴さんは「内の萱ルートの方が権現づるねよりも伊那小屋に近く、初日に小屋まで行けると考えて選んだ」と推測する。 日本山岳ガイド協会認定ガイドの堺沢清人さん(76)=駒ケ根市=によると、権現づるねは険しい尾根道で「内の萱を通るよりはるかにきつく、時間もかかる」。当時は持ち歩けるテントはなかったといい、「小屋に到達できることは安全面で大きかった」と指摘する。だが、伊那小屋は簡易な造りで、荒天の中を一行が到着した時、「後形(跡形)もありません」と生還した生徒は記している。 同館は原さんの手記を27日から特別展で公開する。11月18日まで(月曜休館)。午前9時~午後5時。入場無料。(長野県、信濃毎日新聞社)
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