京都市で古文書などの収集販売をしているギャラリーが保管する書簡が、明治期を代表する俳人・歌人正岡子規(1867~1902年)から、松本市出身の俳人で教育者の矢ケ崎奇峰(1870~1948年)に宛てた直筆書簡であることが25日分かった。子規研究家の信州大名誉教授の宮坂静生(本名・敏夫)さん(75)=松本市=が筆跡を鑑定して確認した。子規らが郵便で全国の俳人たちと作品を回覧する方法で行っていた通信句会「月次十句集(つきなみじゅっくしゅう)」に関してつづった内容。宮坂さんは「子規が俳句仲間を具体名を挙げて選ぶ様子がうかがえ、子規の全集や選集にも載っていない貴重な新資料」と評価している。 書簡は、京都市の「ギャラリー創」が、美術商の交換会で3月に入手。内容について現代俳句協会会長でもある宮坂さんに解読を依頼した。宮坂さんは「特徴がある子規の字」と特定した。同ギャラリーは古文書に詳しい愛知文教大の増田孝学長(日本書跡史)にも依頼し、筆跡などから本物との鑑定を受けた。 書簡は、和紙に墨で書かれ、縦24センチ、横30・7センチ。子規が携わった通信句会は、1896(明治29)年4月~99年12月に毎月開かれ、題に沿って出句者が10句詠んで幹事に郵送し、幹事が冊子にまとめ、出句者間を郵送で回覧していた。出句者たちは「天」「地」「人」の順で得点を入れた。奇峰が幹事を務めたのは99年4月の1回で、書簡は当時、大町尋常高等小学校の教員をしていた奇峰に宛てて書かれたものとみられるという。 書簡では「芳水(ほうすい)、月我(げつが)二人は無失格、近山(きんざん)、神田坊(かんだぼう)は故ありて削り置き候。右四人に関する得点は〓(手ヘンに聰のツクリ)(す)べて番外として御数へ下されたく候」とあり、出句した4人の句を、評価の対象に入れてはいけないと幹事を務めた奇峰に伝えている。宮坂さんは「子規は通信句会を通じて、(子規が提唱した)『日本派』の地域のリーダーをつくろうとした。参加条件を厳しく決めていたことが分かる」と評する。 書簡では、子規が脊椎カリエスで手術した腰に、座ることもできないほどの痛みを抱えていた状況も浮かぶ。 一方、奇峰は、子規が提唱した「日本派」の地方結社「松声会(しょうせいかい)」の中心的俳人。宮坂さんによると「信州は、日本派の俳句運動で中心的な役割を果たした」とする。 宮坂さんによると、俳句雑誌「ホトトギス」には、子規が通信句会に新たに句を出す人が多いのは喜ばしいこととする一方で、面識のない人が出句することで気持ちが通じ合わないことを心配する文章があるという。今回の書簡では「気心が知れた人で交流し、俳句運動を進めようとした子規の仲間のつくり方が分かる」という。増田さんも「子規の研究にプラスになる貴重な資料」と評価している。(長野県、信濃毎日新聞社)
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